趣味の一つ、フィギュアスケート観戦。
ショーよりも競技が好き。
リンクの上で一人、闘う。持ちうる技術を全て、いかにしてルールの中で冷静に出し切り、観客を魅了することが出来るか。
選手のために構成された音楽と非現実的な衣装。失敗も成功も多くの視線の中心で起こる。
華やかさと冷酷さの混在するとてもユニークな競技だと思っている。
本来フィギュアスケートとは、その名の通り、スケートで図形を描くことが主だった。円、八の字、螺旋・・・。
足元だけではエッジを使いこなすことはできない。自然に体幹の整った美しい姿勢がエッジワークにつながる。心身とスケート靴が一体となった動き。
ジャンプ、ステップ、スピン。
フィギュアスケートはその技術があってこその美である。
フィギュアスケートの根幹であったコンパルソリーは1990年代に競技から外され代わりにショートプログラムとなった。
昨今は練習においてもコンパルソリーは軽視されているだろうことが若い選手の滑りからもよくわかる。
顔の表情、上半身、手先でみせる派手な表現。それらはテレビ画面向きであって、本来の表現力ではない。
テレビのカメラワークも上半身だけを映す頻度が多い。最初から最後まで足元から全体を映して欲しいと切に願う。
一時、スピンの時に真上から撮影することが流行りだした。目が回るし肝心なポジショニングが見れないではないかと憤慨した記憶がある。たぶんファンからの苦情も殺到したのだろう、あっという間に影を潜めたようでほっとしている。
フィギュアスケートにおける表現力とは、上質なスケーティングスキルがあってこそ生まれるものではあり、だからこそ数々の技と共に全体的に醸し出され、会場の空気全体に伝わってくるのなのだ。
あの広いリンクを、たった一人で滑って、最上階にいる観客まで魅了するほど空気を支配するのは、とってつけたものでは到底無理なのだ。
余談だが、表面に見えるものは全て内側の現れである。
建築の意匠も、ただ表面に張り付けただけのものは薄っぺらい。全体を保つ構造を活かした意匠は重きがあり、美しい。
お化粧も、肌が綺麗であればあるほど美しい。肌の綺麗さは内臓、腸の綺麗さ。身体が健康であることは精神が美しいことの現れ。
映画も、表に出てくる俳優は、その演技を引き出す裏方の努力の結晶だ。
表裏、内外が一体となって表れるものは、奥深く美しい。
昨今のフィギュアスケート界でも、それらの内面から醸し出される空気感は、熟練の成熟したトップの選手たちからテレビを見ていても感じられる。
ジュニアからお気に入りの選手を見つけ、そこまでの成長を応援できるのも観戦の楽しみである。
さりとて、高難度なジャンプが飛べなくては勝てない競技。そして、軽々飛べる年齢とスケーティングの熟成時期のずれという、なんとも矛盾をはらんだ競技でもある。
ましてや審査員の主観に頼るのみの採点競技。いつも点数にはもやもやとした気持ちがつきまとう。
だったらショーで楽しめばいいではないかと、ふと思ったりするけど、勝負に集中し何よりも自分と闘う研ぎ澄まされた緊張感の中で美しく強い姿がやっぱり好き。
なので、昨今では順位とかスター選手とか、そんなこと関係なく自分の考察で楽しんでいる。
その覚書なども徐々に書いていこうとおもう。
今日はこのへんで。